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 よくよく思い返してみたのだけど、やっぱり僕は、ものごとを自分の中で大きくしすぎたり考え方が極端になったりするみたいだ。

 今考えると、昔は青臭い考え方を自分の美徳としていた。いわゆる、青春。とか、正義。とか言われるような。ちょっとした幸せを無理やりに感動的なものにしようとしていたし、犯した過ちや耳にする不幸を恐れ過ぎていた。ものごとから多くのものを読み取ろうとするつもりでそうしていたのだけど、実はやり方を間違えていたのだと思う。ひとつのフラグメントの奥底からの小さな声に耳をすますつもりであったのが、表面に映ったありふれたものを重大なものと思い込もうとしていたのだ。大げさで安っぽい一人芝居のようだし、シニカルな童話の中に見つけられそうな、滑稽なエピソードでもある。
 それでも実際、そんな風に生きるのはとても心地よいものだった。そんな生き方は僕にとっては自然なもののように思えた。周りにいる人たちは皆「いい人」だと思っていたし、「絶対的な正しさ」がいつでも僕らを見守っているのだと思っていた。不条理な世の中と言いつつも「正しい」行いはいつか報われるものだと思っていたし、「悪い」行いは必ず罰せられると思っていた。それこそ明確な幸福や不幸というかたちで。純粋といえば純粋で、とてもわかりやすい思想だ。そういう世界の捉え方のおかげで、敵を作ることはほとんどなかった(あるいは敵がいることを知らなかった)し、少なからず認めてくれた人もいた。
 だが今思えば、そんな考え方や振る舞い方のせいで、たくさんの人を傷つけてしまったのだと思う。そしてもう僕は正しさを振りかざすような真似はしたくない。

 自分にとっての正しさは自分だけのものでいい。

 精神的な支柱は、硬くしっかりしていた方が望ましいように思える。硬ければ硬いほど動きづらく、信頼を置けるように感じられる。だが小さな振動にはびくともしなくても、いざ大きな衝撃が来てしまえば案外簡単にぽっきりと折れてしまうものだ。そして、一度折れてしまった固い柱は取り除かなければ修復できない。硬いだけの柱なんていうものはただ頑固であるだけなのだということを、僕は取り返しの付かないことになってから知ってしまった。

 今は心のあり方をニュートラルな位置に収めようと奮闘している最中であったはずなのに、それを忘れていた。そしてさらにその反動にも気を付けなければいけなくて、この極端な性格のせいなのか、ニュートラルであろうと意識しすぎて余計に心が強ばってしまっている。自然な心の動きというのは、ある程度の自制力を持った振り子のようなものだと思う。力が加えられればゆらゆらと動くのが自然であるのに、それを頑固に動くまいとするせいでなんとも不恰好な振れ方をしている。大きく振れすぎることも危ないことだけれど、動かないことが望ましいわけではない。

 今こしらえている柱は、力を加えられても倒れないような弾力性を持ったものにしていきたい。いろいろな考え方に対応できるような柔軟性を持ったものにしていきたい。「自然」というものが本当はよくわからないのだけれど、できれば自然に感動できるようになりたい。

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 なんで僕が今へらへらと笑うことが出来ているかといえばそれはものごとを深く捉えることをしないようになったからで、それはいいことなのか悪いことなのかといえば、よくわからない。数年前に比べると、目に映る景色は格段に色味が増えた。口にするものを味わうことができるようになったし肌つやもよくなった。ただ、音楽に心を揺り動かされたり、言葉に胸を突き刺されることはあまりなくなった。涙があふれることも減った。深刻にものごとを考えることと一緒に、感受性までも失くしてしまったんだろうか。それともこれまでの感動は、過剰に大きなものと勘違いすることから生まれていたんだろうか。いつか大事なものを置いていきそうで怖くなる。大事なものがなにかを見間違いそうで怖くなる。





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 今日は一月というのにとても暖かく、気分が良かった。夕方になって、ダウンを着なくても過ごせそうな気温と春になりかけたような空気の匂いに誘われて、そうだあれを聴こうと思い立ち『A Lovely Way to Spend an Evening(恋に過ごせし宵)』というアルバムを流していた。加えて言うと、昔どっぷり恋していた女の子(付き合ってすぐにふられた)と昨日久々に連絡をとる機会があって、その子と別れた次の春、復縁できるかもしれないと浮かれていたときに聞いていたCDだったということも大いに影響している。このアルバムはそのときのふわふわした気分にぴったりはまっていた。そして、音楽というのは思い出と結びつくことでより心に訴えかけることがある。要はちょっと感慨に浸りたいときに聞く音楽の一つなのだ。でも、『恋に過ごせし宵』って素敵なタイトルですよね。

 わりと多作だということと僕が音楽的に浮気症なこともあって、頻繁に新作を追うということはなかったのだけど、新しい作品がどのくらい出ているのか久々に調べてみることにした。思った通り、最後に新作を買ったときから数えてもかなりの枚数をリリースしていて、これをすべてチェックするのは財布がもたないなーと考えていると思いがけない情報に行き着いた。昨年の9月に亡くなったらしいのだ。八十歳近いおじいちゃんだということは知っていたのだけど、まったく予想していなかった。

 エディ・ヒギンズはそんなにメジャーではないと思うし、それに一枚のCDを真剣に聴きこむようなスタイルの作品を作るミュージシャンではないと思う。だけどそれゆえ、中身の詰まった言ってみれば味の濃い揚げ物料理のような音楽に疲れたときには、その思想性のなさがとても心地いい。衝撃を与えるような名品も見当たらないけれど、どの作品を聴いてもハズレはないし、その口当たりの良さからどんなシチュエーションで聴いても割り合い気分よく過ごせる。特に日本人にとっては嫌悪感を抱く人はいないと言われているようだし、僕もそう思う。

 そんなことから、エディ・ヒギンズは自分にとって特別なミュージシャンとして数えることはないにしろ、裏切られることはないという意味で信頼できる音楽家の一人だった。時間が経ってから訃報を知るというのは、亡くなった事実はもちろん、それとは別の悲しみを伴なって感情に染みてくる。多くの作品を作ってくれたことの感謝を感じながら、これからもたまの機会に聴いていくことになるのだと思う。



恋に過ごせし宵
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 折に触れて「あの時ああしていればよかった」という追想をする。それは大抵が反省よりも後悔に繋がり、しばしばそこから身動きがとれなくなる。同じような状況に遭遇したときに備えるための自己防衛反応なのだと考えれば決して無駄なことではないのだろうけれど、思い詰めた後悔というのはしばしばいびつな思いが込められているもので、ごく個人的な経験からすると、それは過剰な自己否定だ。過去の自分を否定して、そこから新しい自分を見出だすことで前へ踏み出せるのならなにも問題なんかはない。ただ、それが出来ないから困る。自分自身を嫌いになってしまうのは悲しい。

 いつでも、自分を大事にすることを心掛けたほうがいいのだと思う。過去に犯した過ちは多分誰かを傷付けている。あれは間違いだった。それでも、現在、そして未来の自分を否定すべきじゃない。
「あのときの自分には、ああすることしかできなかった」
 自分を責めすぎるきらいがあるのなら、そんな風に過去の自分を許してあげることで、これから先にしてしまう失敗ともうまく付き合えていけるはずだ。きっと。過去の自分は現在の自分とは違うものだし、現在の自分も未来の自分と同じであるわけがない。

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直線的にものごとを推し進めていくことよりも、ぐにゃぐにゃと行ったり来たりする。よく立ち止まる。ひとつの絶対的な目標に向かって邁進するよりも、そのとき大事だと思うことを大事にする。その日を一生懸命生きたり、適当に時間を受け流したりする。笑ったり、笑かしたりする。圧倒的な感動はあんまりいらない。おだやかに幸福でいたい。不幸は少しでいい。たまには泣いたりする。明日になったら考えることが変わる。
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